PER・DCF・PSRの使い分けと、上場前後で生じる「評価軸の断絶」
この記事でわかること
- IPO時の株価は、想定発行価格・仮条件・公開価格という3つの段階を経て決まり、バリュエーション(企業価値評価)が直接効くのは最初の想定発行価格の段階であること
- 実務の基本形は類似会社比較法(PERマルチプル)であり、そこからIPOディスカウントと呼ばれる割引が行われること。公正取引委員会の調査では、証券会社の90.9%がIPOディスカウントを実施し、その水準は20%以上30%未満との回答が最も多かったとされています
- 「類似会社のPER × 予想当期純利益 × (1−ディスカウント率)」という算出構造のうち、発行会社が確実に動かせるのは予想当期純利益だけであること
- SaaSではPSR・EV/Revenue、創薬バイオではDCF・rNPVといった具合に、収益ステージや業態によって指標が切り替わる理由。
- 日本証券業協会の「有価証券の引受け等に関する規則」が主幹事に何を義務づけているか、2023年10月からの仮条件範囲外での公開価格設定とは何か
- 未上場ラウンドはVCレート等を割引率とするDCF法が実務上最も一般的とされる一方、IPO時は類似会社比較法(PERマルチプル)が主軸となり、両者の間に「評価軸の断絶」が生じること
- 事業計画の精度や、ロードショー・マテリアル(機関投資家向け説明資料)の作り込みがIPOバリュエーションに直結する理由
- 東証グロース市場の上場維持基準見直し(2030年3月1日以後適用)が、IPO準備企業のバリュエーション設計に与える影響
1. IPOの価格はどこで決まるのか
IPOの株価は一度に決まるものではなく、想定発行価格 → 仮条件 → 公開価格という3段階を経て確定します。企業価値評価(バリュエーション)の理論が正面から効くのは、このうち最初の想定発行価格の段階です。
想定発行価格とは、有価証券届出書に記載される参考価格をいいます。公正取引委員会の実態把握報告書によれば、主幹事が新規上場会社の事業と類似した事業を営む会社(類似会社)の財務状況を勘案するなどして算出した理論価格から、IPOディスカウントと呼ばれる割引を行って設定される場合が多いとされています。また、筆者は投資銀行部門内でIPOバリュエーションの過程を幾度となく見ていますが、事実その通りです。
仮条件とは、ブックビルディング(需要積み上げ方式)の最終需要集計の基となる価格帯をいいます。想定発行価格を基に、機関投資家を対象とする会社説明会(ロードショー)を行い、妥当と考えられる株価や購入予定株数を調査したうえで、上限額と下限額からなる価格帯として設定されます。東証のモデルスケジュールでは、ロードショーは有価証券届出書の提出の翌日から10営業日前後をかけ、30〜80社前後の機関投資家を対象として行われます(ロードショーの規模は、オファリング形態によるため、詳細は意図的に割愛します)。
また、公開価格は、その仮条件を投資家に提示して行うブックビルディングの結果を踏まえて決まります。1997年9月にブックビルディング方式が導入されて以降、すべてのIPO案件でこの方式が選択されている状況です。
つまり、準備企業が「バリュエーションを上げる」ために働きかけられる余地は、理論価格の前提となる事業計画・類似会社の選定・成長ストーリーの側にあるということになります。
筆者は実際に証券会社側でIPOにおけるバリュエーションの過程を見てきた立場であり、その裏側も踏まえて解説をします。
売出株式数の変更もあり得る
図表01:公開価格が決まるまでの3段階とバリュエーションの介在点(公正取引委員会「新規株式公開(IPO)における公開価格設定プロセス等に関する実態把握について」に基づき作成)
実務では、この3段階の価格の動きを、例えば、「レンジワーク」と呼んだりします。想定発行価格を起点に、仮条件の上限・下限がどこに置かれ、公開価格がその中のどこ(あるいは2023年10月以降は範囲外のどこ)に着地したかを追うものです。需要が強い案件では、仮条件が想定発行価格の上方に設定され、公開価格が仮条件の上限に張り付く形になります。
図表02:レンジワークの例 ― 想定発行価格・仮条件・公開価格の推移(各段階の関係を模式的に示したもの。数値は例示)
参考: 公正取引委員会「新規株式公開(IPO)における公開価格設定プロセス等に関する実態把握について」(2022年1月28日) https://www.jftc.go.jp/houdou/pressrelease/2022/jan/220128_IPO/220128_report.pdf
2. 実務の基本形は類似会社比較法(PERマルチプル)
日本のIPO実務で最も広く使われているのは、類似会社比較法です。類似会社比較法とは、事業内容・規模・成長率などが近い上場会社の株価指標(マルチプル)を、評価対象会社の財務数値に当てはめて株式価値を算出する手法をいいます。株価収益率(PER)を用いる場合は、類似会社のPERに評価対象会社の予想当期純利益を乗じて時価総額を導きます。
この手法が主流である理由は単純で、上場先の市場でその会社がどう値付けされるかを、同じ市場にいる会社の値付けから逆算するのが最も説明しやすいからです。DCF法のように将来キャッシュ・フローと割引率という前提の塊を積み上げる必要がなく、投資家に対しても「この会社と比べてこの倍率」という共通言語で語れます。
2-1. 類似会社の選定が実質的な勝負どころ
類似会社の選定は主幹事が行いますが、ここで選ばれる数社が理論価格をほぼ決めてしまいます。同じ「人材サービス」でも、成熟した人材紹介会社を並べるのか、高成長のHR Techを並べるのかで倍率は大きく変わります。IPO準備企業の側が、自社をどのカテゴリーに位置づけたいのか、その根拠となる収益構造・成長率・利益率を示せるかが、事実上の交渉材料になります。
2-2. とはいえ、発行会社が本当にコントロールできるのは利益水準
もっとも、類似会社の選定を「絶対的な」勝負どころと呼ぶことには留保が必要です。最終的に誰を並べるかは主幹事の判断も大きく伴うものであり、発行会社の主張がそのまま通るとは限りません。また、選定された倍率そのものも市場が付けているものであって、交渉で大きく動かせる性質のものではありません。(特に、その時、株価の調子の良い類似会社が選定されても、IPO期間中に決算跨ぎにより、大きく類似会社の株価が下落してしまう事例を筆者は経験しています。この場合、どのようにバリュエーションを見直すかは状況次第なので、どうなったか知りたい方はお問い合わせください。)
PERマルチプルによる想定発行価格の算出を式に開くと、構造がはっきりします。
図表03:PERマルチプルによる時価総額・想定発行価格の算出構造(公正取引委員会報告書に基づき作成。ディスカウント率は同報告書で最多となった回答帯を例示)
この式の3つの要素のうち、類似会社のPER(倍率)は市場が決め、IPOディスカウント率は(少し語弊があるかもしれませんが)実質的に主幹事が決めます。また、主幹事に類似会社をどのように選定させるか、という点は重要ですが、発行会社が確実に動かせるのは、掛け算の基礎となる予想当期純利益だけです。倍率を1倍分引き上げる交渉に労力を割くより、利益を1割積むほうが、結果としては確実に効くとも言えるでしょう。
しかも利益水準が効くのはこの式の中だけではありません。予算統制と予実精度は上場審査でも見られる論点であり、上場後は四半期ごとに予実として検証され続けます。「今期は投資フェーズなので利益は出さない」という選択は、PER評価の分母を自ら削り、上場審査で説明すべき論点を増やす行為でもあります。赤字先行モデルであれば、いつ・どのコスト構造で黒字化するのかを示せることが、そのまま評価の前提になります。
ただし、もちろん、類似会社の選定について主張や根拠を用意することは無駄ではありません。ただ、そこは「議論の土台を対等にする」ための作業であり、時価総額をコントロールできるのは利益であることは理解したほうが良いでしょう。
2-3. IPOディスカウントの実態
理論価格がそのまま想定発行価格になるわけではありません。IPOディスカウントとは、新規上場会社における会社情報の入手が難しいことや流動性の予測が難しいこと等を考慮して、IPO案件の執行可能性を高めるために行う割引をいいます。
公正取引委員会が2022年1月28日に公表した実態把握報告書では、回答した証券会社の90.9%がIPOディスカウントを行っているとし、その水準は「20%以上30%未満」との回答が最多(63.6%)であったとされています。一方で、ディスカウント率の算定根拠について主幹事から具体的かつ説得的な説明を受けたとする新規上場会社は一部にとどまったとも報告されています。同報告書には、「貴社の業界の場合ディスカウントは30%が相場である」との説明を受けた、算定根拠の説明を求めたが取り付く島がなかったといった新規上場会社側の声も収録されています。
これを受けて公正取引委員会は、IPOディスカウント等の名目で、考え方を説明することなく合理的な根拠に基づかずに価格を低く設定することは独占禁止法上問題となるおそれがあるとの考え方を示しました。ディスカウント率そのものが違法だという話ではなく、根拠を説明しないまま一方的に割り引くことが問題視されたという整理になります。準備企業としては、ディスカウントの算定根拠を求めること自体が正当な行為だと理解しておいてよいかと思います。(具体的な算定根拠が出てこないことのほうが多いと思いますが)
3. なぜ業種によって評価指標が変わるのか
PERは利益が出ていて初めて機能する指標です。赤字先行型のビジネスモデルでは分母が使えないため、評価軸は収益ステージに応じて売上・キャッシュ・フロー・パイプラインへとずれていきます。
ここで整理しておくと、PERもPSRも、類似会社の倍率を対象会社の財務数値に乗じるという意味では同じ類似会社比較法の一種です。違うのは分母だけで、当期純利益を置くのがPER、売上高を置くのがPSRです。したがって「類似会社比較法かPSRか」という対立はなく、正しくは「PERか、PSRか、それとも倍率が使えずDCFか」という選択になります。
(PERマルチプル)
EV/Revenue
(分母にARR)
rNPV
(パイプライン合算)
+マイルストーン評価
図表04:収益ステージ別に見た評価アプローチの使い分け(各評価手法の実務上の適用領域を基に作成)
3-1. SaaS ― PSR・EV/Revenue
SaaS(Software as a Service)のように、先行投資で赤字を掘りながら経常収益を積み上げるモデルでは、株価売上高倍率(PSR)や企業価値対売上高倍率(EV/Revenue)が用いられます。分母には年間経常収益(ARR)を置くこともあります。
もっとも、PSRは「売上がいくら伸びていても、利益がいずれ出る」という前提に依存する指標です。国内上場SaaS企業のPSRは、2021年の高水準から大きく低下したとされ、2024年には4〜6倍の範囲で推移したと分析されています。実務家の間では、売上成長率30〜40%以上がPSRで評価されるかどうかの分水嶺で、それを下回るとPER評価に移らざるを得なくなるとの見方も語られています。倍率は成長率と収益性の関数であって、業種に付随する固定値ではないという点は押さえておく必要があります。
3-2. 創薬バイオ ― DCF・rNPV
売上そのものがまだ存在しない創薬型バイオベンチャーでは、マルチプルは使えません。ここで用いられるのがDCF法(割引キャッシュ・フロー法)と、その派生であるrNPV(リスク調整済み正味現在価値)です。rNPVとは、パイプラインごとに上市後のキャッシュ・フローを見積もったうえで、開発フェーズ別の成功確率を乗じて期待値化し、現在価値に割り引く手法を指します。
臨床試験の成否は本質的に二者択一であり、その不確実性を割引率だけに押し込めようとすると、40〜50%といった非現実的な割引率が必要になります。rNPVは臨床リスクを割引率ではなく確率の側に置くことで、この歪みを避ける考え方だと説明されています。パイプラインが複数ある場合は、各資産のrNPVを合算し、手元資金を加算する形で株式価値を導きます。
3-3. 宇宙・ディープテック ― DCFとマイルストーンの併用等
宇宙関連やディープテック領域は、売上計上までの時間軸がSaaSより長く、事業の成否が技術的マイルストーンに強く依存します。この領域でDCF法が使われるのは、比較可能な国内上場類似会社がそもそも乏しいという消極的な理由も大きいと考えられます。実務上は、DCFの数値そのものよりも、打上げ・実証・型式証明といったマイルストーンの達成が、事業計画の蓋然性をどこまで担保できているかが評価を左右します。
いずれの領域でも共通しているのは、評価手法の選択は「どの数字が信頼できるか」の裏返しにすぎないということです。利益が信頼できればPER、売上が信頼できればPSR、どちらも使えなければ計画そのものを割り引く。手法の順位ではなく、自社の数字のどこに検証可能性があるかを起点に考えるのが実務的です。
4. 制度は価格設定に何を求めているか
バリュエーションは主幹事の裁量に委ねられているように見えますが、日本証券業協会(日証協)の自主規制規則が一定の枠をはめています。
「有価証券の引受け等に関する規則」第26条第2項は、主幹事会員が想定価格(有価証券届出書に想定価格を記載しない場合は企業価値の評価額)、仮条件または公開価格を決定する場合に、発行者等または投資者と業務上密接な関係にない部署または会議体において、これらの価格または価格の範囲等の妥当性について確認を行わなければならないと定めています。その確認に係る記録は5年間保存することが求められます。営業部門から独立した部署が価格の妥当性を検証する建付けになっているということです。
仮条件の決定についても、同規則の細則第14条が、発行者の事業内容・財政状態・経営成績、有価証券に対する投資に係る専門的知識および経験を有する者の意見などを総合的に勘案し、発行者または売出人と協議のうえ決定することを求めています。協議の相手方として発行会社が明記されている点は、準備企業側が押さえておくべき条文です。
4-1. 2023年10月からの仮条件範囲外での公開価格設定
2022年2月の日証協「公開価格の設定プロセスのあり方等に関するワーキング・グループ」報告書を受けた規則改正により、2023年10月1日以降のIPOでは制度が変わりました。従来、公開価格は仮条件の範囲内で設定されていましたが、仮条件の範囲外で設定される可能性があり、公開価格の設定と同時に売出株式数が変更される可能性もあります。設定され得る公開価格の範囲や変更され得る売出株式数の範囲は、目論見書等に記載されます。
あわせて、上場承認前に有価証券届出書を提出することで、上場承認日から上場日までの期間を従来の1か月程度から21日程度に短縮する方式も選択できるようになっています。需要が強ければ価格を上げられる余地が制度上開かれた一方、市況変動リスクにさらされる期間は短縮されたことになります。
参考: 日本証券業協会「IPOにおける公開価格の設定プロセスの見直しについて」 https://www.jsda.or.jp/shijyo/minasama/koukaikakaku.html
5. グロース市場の上場維持基準見直しが変えた前提
2025年9月26日、東京証券取引所は「グロース市場の上場維持基準の見直し等について」の制度要綱を公表しました。グロース市場上場会社に、機関投資家の投資対象となり得る規模への早期の成長を促すとともに、企業間のM&Aや起業家の次なる創業などを促進する観点から見直しを行うものとされています。
内容は、上場維持基準としての時価総額要件を、従来の「上場10年経過後に40億円以上」から「上場5年経過後に100億円以上」へ引き上げるというものです。適用は2030年3月1日以後最初に到来する事業年度の末日からで、基準日に不適合の場合は3か月以内に適合計画を開示し、1年間の改善期間が付与されます。ただし、見直し前の基準(上場10年経過後40億円)にも適合しない状態となった場合には、改善期間を設けず速やかに上場廃止が決定されるとされています。
これはIPO時のバリュエーション設計を直撃します。新規上場基準そのものは据え置かれていますが、上場5年後に時価総額100億円へ到達する経路を説明できない会社は、審査でも投資家との対話でも苦しくなると考えられます。実際、2025年3月末時点でグロース市場上場会社のうち時価総額100億円以上の企業は全体の約3割にとどまるとされ、2025年上期のグロース市場へのIPO件数は前年同期の34社から18社へと減少したと報告されています。2025年の新規上場会社数は110社と、前年の134社から減少したとされています。
参考: 日本取引所グループ「グロース市場の上場維持基準の見直し等について」(2025年9月26日) https://www.jpx.co.jp/news/1020/20250926-01.html
6. IPO準備企業が今から準備すべきこと
6-1. 未上場ラウンドとIPO時の「評価軸の断絶」を先に理解し潰す
見落とされやすいのが、未上場ラウンドとIPO時とでは、そもそも使われる評価手法が違う場合が多いという点です。
未上場株式には市場価格が存在しないため、資金調達ラウンドの株価算定では、将来の事業計画を割り引くインカム・アプローチが中心になります。(アーリーなステージでは一定、「言い値」のような場合もありますよね。)日本公認会計士協会が2023年3月16日に公表した経営研究調査会研究報告第70号「スタートアップ企業の価値評価実務」では、VCレートを用いたDCF法が、実務上最も一般的に使用される方法として挙げられているとされています。
VCレートとは、ベンチャーキャピタルが未上場企業への投資に対して要求する収益率をいい、DCF法の割引率としてWACC(加重平均資本コスト)の代わりに用いられます。上場企業のWACCはCAPMによって理論的に導かれますが、スタートアップには株価が存在せずベータ値が取得できないため、この方法が使えません。加えて、投資家向けに策定される事業計画は相応に強気に描かれるのが通常であり、これをWACC並みの割引率で割り引けば、算定額は現実から乖離した水準に膨らみます。
そこで、事業ステージに応じて20〜50%程度という、CAPMに基づくWACCより相当程度高い率が採られます。名目は要求収益率ですが、実質的には、計画の楽観分と事業そのものが成立しない確率とを、割引率の側に吸収させる装置として機能していると説明されています。ステージが早いほど率は高く、シードに近づくほど50%側、レイターに近づくほど20%側に寄るのが一般的とされます。第3章で述べた創薬バイオのrNPVが、臨床リスクを割引率ではなくフェーズ別の成功確率という確率の側で調整するのと対照的な設計思想であり、VCレート方式は簡便である反面、割引率という単一の数値に多くの意味が乗るという弱点を抱えています。
マルチプル法は、DCFで算出した価値が市場評価と整合しているかを確認する目的で併用されるのが一般的で、赤字先行企業ではEV/Revenue(売上高倍率)なども参照されます。加えて、非流動性ディスカウント(DLOM)として20〜30%程度の減価が適用される場合もあります。もっとも、最終的な発行価額は投資家との交渉で決まり、実務上は直近ラウンドのポスト・バリュエーション(発行単価×発行済株式数)が時価とみなされることが一般的です。
これに対しIPO時は、第2章のとおり類似会社比較法(PERマルチプル)が主軸となり、そこからIPOディスカウントが乗ります。「将来計画の現在価値」で値付けされていた会社が、上場の局面では「直近・来期の利益に市場倍率を掛けた値からさらに割り引いた価格」で評価し直される、という切り替わりが起きます。
この断絶が顕在化すると、前回ラウンドの評価額を下回る水準でしか上場できない、いわゆるダウンラウンドIPOに至る可能性があります。既存株主との調整が付かず、上場時期そのものを再検討する事態も起こり得ます。シリーズB以降の調達条件を設計する段階で、DCFの前提に置いた事業計画をPERやPSRに翻訳したときにどの水準の時価総額になるのかを確認しておく必要があります。優先株式の条項(みなし清算・希薄化防止条項)が上場時の普通株転換にどう効くかも、同じタイミングで押さえておくべき論点です。
(VCレートを用いる)
・マルチプル法(EV/Revenue等)は市場整合性の確認に併用
・非流動性ディスカウント(DLOM)20〜30%程度の減価が適用される場合あり
・最終的な発行価額は投資家との交渉で決まり、直近ラウンドのポスト・バリュエーションが時価とみなされる
(PERマルチプル)
・赤字先行企業ではPSR・EV/Revenueで代替するが、成長率の鈍化により利益指標へ移行しやすい
・理論価格からIPOディスカウント(20%以上30%未満との回答が最多)が乗る
・普通株ベースの時価総額で機関投資家の投資対象規模が問われる
図表05:未上場ラウンドとIPO時で生じる「評価軸の断絶」(日本公認会計士協会 経営研究調査会研究報告第70号および公正取引委員会報告書に基づき作成)
参考: 日本公認会計士協会「経営研究調査会研究報告第70号『スタートアップ企業の価値評価実務』の公表について」(2023年3月16日) https://jicpa.or.jp/specialized_field/20230404fbe.html
6-2. ロードショー・マテリアルを早い段階から作り込むことの意義
さて、少しお話が変わりますが、仮条件決定の際にロードショーの重要性についてお話をしておきます。 ロードショー・マテリアルとは、機関投資家向けの会社説明会(ロードショー)で使用する説明資料をいいます。仮条件は、この資料を用いた40〜50社前後の機関投資家との面談を踏まえて設定されるため、バリュエーションの理論値と実際の価格帯をつなぐのは、事実上この資料と経営陣の説明ということになります。理論価格をどれだけ精緻に組んでも、投資家がその前提を信用しなければ仮条件には反映されません。
作り込みの要点は、評価手法との対応関係を意識することにあります。PERで評価されたい会社であれば、利益がどのコスト構造から生まれ、なぜ再現性があるのかを示す必要があります。PSRで評価されたい会社であれば、売上をKPIに分解し(顧客数・単価・解約率・ネットレベニューリテンションなど)、成長率が今後も維持される根拠を示すことが求められます。DCFに依存する会社であれば、計画の各年度が過去実績とどう接続しているか、マイルストーンの達成をどう見込んでいるかが問われます。投資家が自社のマルチプルを自分で計算できる状態にすることが目標です。
ロードショーでの説明は、上場後のIR資料とそのまま連続します。ここで示した成長ストーリーとKPIは、上場後に予実として検証され続けます。仮条件を引き上げたいがために達成困難な計画を置けば、上場初年度の下方修正という形で跳ね返ります。資料の初稿を主幹事に委ねるのではなく、事業側とIR担当が自ら書き起こすことをお勧めします。
なお、公正取引委員会の実態把握では、ロードショーにおけるヒアリング先について新規上場会社から希望を示されたことがあるとした回答社は、すべて新規上場会社の希望を採用したと回答したとされています。一方で、ヒアリング先について希望はなかったとした新規上場会社は61.6%にのぼったとも報告されています。自社を理解し得る投資家を指定する余地は残されているということです。
6-3. 類似会社の主張と自社のエクイティ・ストーリーをしっかりと用意し、そのうえで利益を積む
主幹事が選ぶ類似会社をのんびり待つのではなく、準備企業側で「自社はこの会社群と比較されるべきである」という主張と、その根拠(売上構成・粗利率・成長率・顧客継続率など)を用意しておくことが有効です。反論するためではなく、議論の土台を対等にするためです。
ただし第2章で述べたとおり、そこで動くのは倍率の一部にすぎません。もちろん、見解の不一致があった際には、しっかりと議論を尽くすべきですが、時価総額をコントロールできる形で実際に押し上げることが可能なのは、掛け算の基礎となる自社の利益であり、その点はしっかりと認識すべきでしょう。
6-4. 事業計画の粒度を上げる
どの評価手法を採るにせよ、最終的に効くのは事業計画の蓋然性です。売上をKPIに分解し(顧客数×単価×継続率など)、過去実績との接続を説明できる計画は、DCFでもマルチプルでも評価に耐えます。逆に、トップダウンで置いた成長率は、割引率かディスカウント率のどちらかで必ず削られます。
7. 結び
IPOのバリュエーションは、手法を選ぶ問題であるようでいて、実際には「自社のどの数字が第三者に検証可能か」を決める問題です。利益が検証可能ならPER、売上と継続率が検証可能ならPSR、いずれも未確定ならDCFで計画そのものを問われる。順序はこれだけです。
そして、その検証可能性を機関投資家に伝える場がロードショーであり、伝える手段がロードショー・マテリアルです。理論価格を仮条件に翻訳するのはこの資料と経営陣の説明であって、算定書ではありません。
2023年10月からの公開価格設定プロセスの見直しと、2030年3月1日以後に適用されるグロース市場の上場維持基準の引き上げは、いずれも「発行会社が自らの価値を説明する責任」を重くする方向に働いています。主幹事に価格を決めてもらう時代から、発行会社が価格の前提を持ち込む時代への移行が、制度の側から後押しされていると見ることもできそうです。上場準備の早い段階から、資本政策とバリュエーションを同じテーブルで議論しておくことをお勧めします。
参考文献・一次資料一覧
政府・公的機関
- 公正取引委員会「新規株式公開(IPO)における公開価格設定プロセス等に関する実態把握について」(2022年1月28日) https://www.jftc.go.jp/houdou/pressrelease/2022/jan/220128_IPO.html
- 公正取引委員会「新規株式公開(IPO)における公開価格設定プロセス等に関する実態把握について(報告書本文)」(2022年1月) https://www.jftc.go.jp/houdou/pressrelease/2022/jan/220128_IPO/220128_report.pdf
日本証券業協会
- 日本証券業協会「IPOにおける公開価格の設定プロセスの見直しについて」 https://www.jsda.or.jp/shijyo/minasama/koukaikakaku.html
- 日本証券業協会「有価証券の引受け等に関する規則」 https://www.jsda.or.jp/about/kisoku/files/20240416_hikiuke.pdf
- 日本証券業協会「公開価格の設定プロセスのあり方等に関するワーキング・グループ」報告書(2022年2月) https://www.jsda.or.jp/shiryoshitsu/houkokusyo/
日本公認会計士協会
- 日本公認会計士協会「経営研究調査会研究報告第70号『スタートアップ企業の価値評価実務』の公表について」(2023年3月16日) https://jicpa.or.jp/specialized_field/20230404fbe.html
東京証券取引所・日本取引所グループ
- 日本取引所グループ「グロース市場の上場維持基準の見直し等について」(2025年9月26日) https://www.jpx.co.jp/news/1020/20250926-01.html
- 東京証券取引所 上場部「グロース市場の上場維持基準の見直し等について」(制度要綱、2025年9月26日) https://www.jpx.co.jp/equities/follow-up/mklp770000007pzz-att/t13vrt000000c1r3.pdf
報道・記事
- ファーストライトキャピタル「SaaS Annual Report 2024-2025」(2025年6月2日) https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000041.000088098.html
本記事は、IPO準備に携わる実務家向けに、新規上場時の企業価値評価の実務と関連する制度の枠組みを整理したものです。記載内容は公表資料・報道等に基づいており、事実関係については一次資料をご確認ください。個別案件の価格設定については、主幹事証券会社および専門家にご相談ください。
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